古代の謎解き 国宝 稲荷山古墳出土鉄剣

Hello!
This is Tomo.
How are you today?
Today I want to write about the mystery of iron-sword inlaid with golden letters.

The 5th century is the age of so-called giant burial mounds.
What happened to the background behind the emergence of the huge burial mound?
Who was the Great King of this country?

I will read and explain about the inscription embedded in the iron sword.
Let’s approach the ancient mystery!

訳:こんにちは!いかがお過ごしですか?tomoです。
今日は、金の文字が埋め込まれた鉄剣についての謎について書きます。

5世紀はいわゆる巨大古墳の時代です。
巨大古墳の出現の背景にはどんな出来事があったのでしょうか?
誰が大王だったのか?
鉄剣に象嵌された銘により、読み解いていきます。

金錯銘入り鉄剣の謎

古代の謎解きほど楽しいものはありません。

なぜなら、具体的な文字資料が少ないのは古代以前だからです。
奈良時代になるとぐっと文字資料が増え、その時代の原像が明らかになりやすいですね!

文字資料が少ない古代とはどこの時代を指すか、というと分かりやすくいえば、古墳時代ですね!

前回、私は埼玉県行田市のさきたま古墳群についてのブログを書きましたが
今回は、前回書ききれなかった、国宝の鉄剣についての記事を詳しく書いていきます!
(私は大学時代に文献史学と考古学を専攻してますので、この古墳時代についてはとても詳しいです(*^^*))

国宝、金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん=金が象嵌された鉄剣)が出土した古墳の後円部に登ります。

頂上には、竪穴の礫郭(石を敷き詰めた埋葬施設)に埋葬された被葬者(かなり身分が高いです)がどのように安置されていたか、という様子がわかるパネルが設置されています。
頭が手前だったようですね。

鉄剣は遺体の向かって左側(長い剣のようなものがありますね・・・)に納められていました。

こんなイメージです。

古墳公園の近くに発掘品を展示してある博物館に行きますと・・・

ありました。国宝級のお宝発見!
鉄剣には金の文字が彫られており、この内容は第一級の考古学的資料なのですね!

その金象嵌には上のように書かれています。(鉄剣の裏側の文)

要約すると、埋葬された人がどんな人であったか、という説明なんですね。

被葬者は、『古事記』『日本書紀』に登場する「オオハツセノワカタケル」(大長谷若建命、諡号:雄略天皇)が大和で天下を治めるのを補佐した、とあり、そのオオハツセノワカタケルに仕えた印として、剣に由来を刻んだ、と書かれていますね。

これは、剣の裏側の銘なのですが、表にもとても重要な記述があります!
それは銘が彫られた具体的な年号なのですね。
それは「辛亥年(しんがいのとし)」。干支なので60年に一回、辛亥が回ってきますね。

古墳時代の辛亥に当たる年は、西暦351年、411年、471年、531年とあり、考古学や歴史学、文献史学などの応用で総合的に考察された結果、471年が当てはまるとするのが定説です。

つまり、471年に記された鉄剣の金錯銘がほぼ埋葬時期と同じである、ということがいえるのですね!

これにより、今までいつ頃作られたか、さっぱりわからない考古資料に年代を当てはめて、遺物がいつ頃作られたか、ということが具体的にわかるようになったのです!

これにより、古墳時代の考古学はぐっと研究が進んだのですね!
ゆえに世紀の大発見なのです。

ものいわぬ土器も、その形でいつ頃作られたか、推測できるのですね(^.^)
上の灰色の須恵器たちは5世紀の半ばごろの製作です。(ちょうど古墳が作られた時代ですね)

当時としては朝鮮半島の技術者から伝わった最先端の技術で、権力者の庇護のもと、須恵器の製作は行われていたと考えられます。

まだ、庶民はこの器を使えなかったでしょうね!
いわば、古代の高級土器だったのですね!

ちょうど大王(オオキミ)である大長谷若建命(オオハツセワカタケル)の時代に使用されていた須恵器です。

大長谷若建命(オオハツセワカタケル)=雄略天皇 の歌

彼は古墳時代の大王として最も有名な大王の一人です。
『古事記』をひも解けば、有力な大王継承者を次々暗殺し、自分が大王位についたことが伝わっています( ゚Д゚)

イメージとしては恐ろしい暴君であった、といえますね!

さて、『万葉集』の巻一に収められている彼の作とされる(実際は他人が作った)
一番歌(巻頭歌ですね)を見てみましょう。

籠(こ)もよ み籠(こ)もち ふくしもよ みぶくし持ち この丘(をか)に 菜摘(なつ)ます児(こ) 家聞かな 名告(の)らさね そらみつ やまとの国は おしなべて 吾(われ)こそをれ しきなべて 吾(われ)こそませ 我こそは 告(の)らめ 家をも名をも (巻一・一)         雄略天皇

(籠よ、立派な籠を持ち、掘串(ふくし)よ、立派な掘串をもって、この岡に菜を摘んでおられる娘よ。家と名前を申せ。この大和の国は、すべてこのわれが治めているのだ。全体的にわれが支配しているのだ。まずはわれこそ、家も名も教えてやろう)

このセリフに注目です!

・・・・やまとの国は おしなべて 吾(われ)こそをれ しきなべて 吾(われ)こそませ
(この大和の国は、すべてこのわれが治めているのだ。全体的にわれが支配しているのだ。)

このフレーズ、すごく力強いと私は思います・・・・。

この5世紀の古墳時代、日本は大王主催の大和政権が隅々まで権力が及んでいたか?
というと、けしてそうではないのですね(-_-;)

イメージとしては日本の中にたくさんの小さい国があって、王がたくさんいたのですね。
そのなかでも勢力が盛んであったのが大和地方の大王家でありました。

↓ 仁徳天皇の墓の巨大さがそれを示してますね。


https://osaka-info.jp/page/tomb-emperor-nintoku-daisen-kofun 大阪観光案内公式サイトより

実は、墓が巨大だから実際のこの国を統治者でなく、実は統治できてないために墓を大きく作った。
大きさを見せつけて国を支配しようとした、というのが本当のところです。

大長谷若建命(オオハツセワカタケル)は仁徳の孫にあたります。
彼らの思惑、

・小国ひしめくこの島国を実質的に統治したい。

・たくさんいる王のなかの王になり、大和の国に君臨したい。

・須恵器や鉄製品などの先端技術を取り入れ、それを配布することによって権威を高めよう。

・流行の先端である前方後円墳を築造し、この形を広めることによって、大王家の優位性を宣言しよう。

・われこそが ruler=統治者になろう。

そういう思いがとてもよくこの歌には込められているな、と思います。
まさに、言霊が使われているのですね。
「やまとの国は おしなべて 吾(われ)こそをれ」

このような状況にしたいから、言霊を使って具体的にイメージしながら全国支配を実現しようとした、大王の姿が想像できます。

実際に5世紀より、爆発的に前方後円墳が全国に広まっていますし、大長谷若建命(オオハツセワカタケル)の時代にはかなり、
大王の力が各地に及んだだろう、ということがわかります。

埼玉県のさきたま古墳群の稲荷山古墳出土の鉄剣はまさしく彼の、全国を支配しようとする大王志向を裏付ける貴重な資料なのですね(^^♪

古代国家の黎明、あるいは大和という(この時代、日本という呼び方はまだない)国家のはじまり。
それを示すのが鉄剣の金錯銘なのです。

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