美しき桜の国「ニッポン」

Hello.

This is Tomo!

Today I introduce ‘the beautiful sakura country Japan’.

It is time for sakura(cherry blossoms, in another word) to broom.

It’s kind of exciting, isn’t it?

Because sakura liven up the spring season.

For example, we can enjoy drinking, eating and singing while viewing flowers
in beautiful warm weather.

Not only that, but there was a deep and strong relationship between sakura and the Japanese.

In this essay, I am going to write about this.

 

(こんにちは。tomoです!
今日は「美しき桜の国ニッポン」をご紹介します。

もう桜が咲くシーズンとなり、なんだかワクワクしませんか?
それは、桜が春を盛り上げてくれるからですね!

例えば、春うららかな日に、花を眺めながら飲んだり、食べたり、歌ったり…と、楽しく過ごせますね。

そればかりではありません。
実は桜と日本人の間には深くて強い関係があるのです。

このエッセイではこのことについて明らかにします。)

 

すでに長崎では桜の開花情報がもたらされました。

公式の桜開花が発表される指標となる、東京の靖国神社境内のソメイヨシノの標本木は、

今日、開花宣言が発表されました!

 

履中天皇と桜

歴史的に「花」といえば「桜」と指すように、桜と日本人には切っても切れない深ーい関係があります。

まず、桜がどのように表現されているか、文学や歴史書から見てみます。

歴史を紐解けば、桜の記述は古く、『日本書紀』の巻第十二、履中天皇の記述に注目したいと思います。

履中天皇とは今から約1500年前の古墳時代に実在した第17代目の天皇とされます。

 

(原文読み下し)

・・・・天皇、両枝船(ふたまたぶね)を磐余市磯池(いわれのいちしのいけ)に泛(うか)べたまふ。

皇妃と各分(わか)ち乗りて遊宴(あそび)たまふ。膳臣(かしわでのおみ)余磯(あれし)、

酒(おほみき)献(たてまつ)る。時に桜の花、御盞(おほみさかずき)に落(おちいれ)り

天皇、異(あやし)びたまひて、則(すなわ)ち物部長真猪連(もののべながのまいのむらじ)を召して、

詔(みことのり)して曰(のたま)はく、

「是の花、非時(ときじく)にして来(きた)れり。其れ何処(いどこ)の花ならむ。

汝(いまし)、自(みずか)ら求むべし」とのたまふ。

是(ここ)に長真猪連(ながまいのむらじ)、独(ひとり)花を尋ねて、掖上室山(わきのかみのむろやま)

に獲て、献る。天皇、其の希有(めづら)しきことを歓びて、則ち宮の名としたまふ。

故、磐余稚桜宮(いわれのわかさくらのみや)と謂(まう)す。其れ此の緣(ここのもと)なり。

是の日に、長真猪連の本姓(もとのかばね)を改めて、稚桜部造(わかさくらべのみやつこ)と曰ふ。

 

現代語訳します。

 

履中天皇は磐余の市磯池で舟を浮かべて別の舟に乗った后とともに、お遊びになっていた。

余磯(あれし)が天皇にお酒を差し出したところ、桜の花が天皇の杯に落ちた。

天皇がこれをご覧になり、おかしいとお思いになり、物部長真猪連(もののべながのまいのむらじ)を呼んで、

おっしゃることには、「この桜は時期外れであろう、どこに咲く花であるか?探してまいれ。」と命じた。

そこで、長真猪連(ながまいのむらじ)は花の原木を探し、掖上室山(わきのかみのむろやま)にあるのを見つけ、

天皇に献上した。履中天皇はその稀有なことを喜び、天皇の住まいである宮殿の名にされた。

磐余稚桜宮(いわれのわかさくらのみや)という。

この日、長真猪連(もののべながのまいのむらじ)の姓を改め、稚桜部造(わかさくらべのみやつこ)とした。

 

・・・・この話によれば、天皇の酒杯に桜の花びらがひらり、と落ちてきたんですね。

それにちなんで、天皇のお住まいを「稚桜宮」(時期が早い桜の宮という意味)とした、

そして、その落ちた桜の花びらの原木を探し当てた家臣の姓を「稚桜部造」とした、

というなんとも風流な説話ではありませんか!

桜は天皇の住まいの名前にもなっているのですね。

この説話によれば、桜は古墳時代より認識されていた、または存在した、と考えられますね。

 

サクラという言葉のもつ意味

ところで、桜の言葉の原義にも注目してみたいと思います。

昔、といっても10年以上前に読んだ本に、国文学者の桜井満氏の著作『桜井満著作集』があります。

その中で桜についての興味深い記述がありました。

 

 

・・・・それによれば、もともと、サクラは「サ」と「クラ」に分解され、それぞれ意味があるそうです。

「サ」とは稲の穀霊を現す言葉であり、「クラ」とはその穀霊が寄り付く依り代である、との見解です。

 

日本は古来より農業国です。

もともと桜は自生している野生の山桜がメインの品種でした。

人々が山を見ると、桜のピンク色が点々とし始めた・・・・。

桜は穀霊の宿るシンボルであったなら、それを見た人々が、農業の神様がそろそろ種まきの季節だよ、

ということを教えてくれているように感じたのでは、と思います。

 

 

いわば、古来、桜は人々の暮らしを支える穀物の神様が宿る木であった、と考えられます。

冬が過ぎたころ、人々は、桜の木をじっと観察し、桜の開花とともに種まきを一斉に始めたのですね。

また、その咲き具合から、今年は豊作かどうか、ということも占っていたそうです。

桜は単に美しい花ではなく、日本の農業を支える精神的に大切な樹木であった、と言えますね!

私は、元々の花見は、豊作の願いを込めた祝いの儀式でなかったか、と考えます。

国見儀礼という国家行事と花見

古代、「国見」という天皇や首長の行う行事があったことをご存知ですか?

『日本歴史大辞典』によれば、【国見儀礼】の項に以下のような説明があります。

【国見儀礼】
年頭や春の農事始めに先立ち。小高い丘に登って村落や耕地を見渡す所で行う農耕予祝の民俗行事。
国誉めの唱え事や共同の飲食を伴うことが多い。古代には大王や首長の行為とされた。

 

この「国見」について、『万葉集』にとても有名な舒明天皇の歌が載っています。

大和には群山(むらやま)あれど とりよろふ天の香具山 登り立ち国見をすれば

国原は煙(けぶり)立つ立つ 海原(うなはら)は鷗(かまめ)立つ立つ うまし国ぞ

蜻蛉島(あきづしま)大和の国は                    巻一・2番

 

訳しますと・・・・

大和にはたくさんの山があるけれども、その中でも特に天の香具山に登り、国見をすると

 国々には竈から立ち上る煙が立っている。海には鷗が飛んでいる。美しい国であるなあ

 穀霊の宿る蜻蛉島(あきづしま) 大和の国は

 

 

見事な国誉めの歌を「国見」という行事に則って表現していますね。

このように、元来、位の高い人たちが行った農耕儀礼「国見」が次第に、

実際に農作業を行う庶民にも「花見」という形に変化、受け継がれてゆき、

農事を始める儀式に欠かせないもの、あるいは合図として桜の開花は喜ばれたのだ、と考えます。

 

頭につけた飾りとしての桜

さて、桜の花を別の角度から見てみたい、と思います。

春の農耕儀礼のお祭りで、頭につける桜の飾りの歌を一首。

をとめらが挿頭(かざし)のために 遊士(みやびを)の蘰(かずら)のためと

敷きませる国のはたてに咲きにける 桜の花のにほひもあなに

『万葉集』巻八・1429 若宮年魚麻呂

(少女らがかざしにするため、風流の士が冠につける飾りにするために、
大君が統治する国の果てまで咲いている 桜の花が美しく、そのにおいもなんて素晴らしいのだろう)

この歌を鑑賞すると、次の事実が浮かび上がります。

①乙女が挿頭(かざし)のために、②遊士(風流人)の蘰(かずら)のために、桜の枝が使用された。ということですね!

 

 

これはどういうことか、というと・・・・・

春に行われたお祭りのときに、桜の枝を頭に着け、穀霊のよりどころである桜のもつパワーを

実際に身に着けていた、ということです。

これは実は「たまふり」という呪術行為に当たり、辞書によりますと、

たまふり【魂振り】

魂に活力を与え再生させる呪術。また、その呪術を行うこと。(三省堂『大辞林』より)

と、あります。

 

 

実際、桜はその枝を折られ、パワーを身に着けるために呪術的に使用されていた、ということがこの歌よりわかりますね。

桜の枝を頭に着けることにより、自分の魂も再生、パワーアップする、という考え方がされていたのですね。

豊臣秀吉の一大イベント「醍醐の花見」

さて、少し時代は変わり、現在の花見につながる歴史的な出来事をご紹介したいと思います。

 

 

京都の桜の名所といえば・・・・・、

伏見区にある醍醐寺がその一つとしてあげられます。

 

 

「醍醐の花見」(慶長3年3月15日)は、豊臣秀吉が最晩年に開催したイベントととして、とても有名です。

醍醐寺の境内、醍醐山の山腹に至るまで、花見をするために近畿地方から集められた約700本の桜が移植された、

と言い伝えられます。

 

 

この空前絶後、前代未聞の花見の宴、

招待客はなんと、女性ばかり。

秀吉の正室である北政所や側室はもちろんのこと、諸大名の奥方や女中まで、総勢1300人の招待客がいたそうで、

しかも、参加した女性は、この宴の最中、二回の衣装替えを命じられた、とされています。

このため、一人3着の着物が新調され、その費用は莫大でありました。

そこに秀吉の性格と思惑が感じ取れますが・・・・・、

 

それにしてもさすが天下人!スケールの大きさに目を見張るばかりです。

この花見の宴では、茶屋でお茶をたしなんだり、食事をしたり、歌を詠んだり、それはそれは贅沢なイベントであったことが伺えます。

秀吉は大好きな女性に囲まれて、さぞご満悦な一日だったでしょうね・・・・。

さて、現代の「花見」とは、いわばピクニック型、娯楽型とも言えます。

 

古代の呪術型「花見」とは異なりますね。

この歴史的イベントに象徴される、桜の木の下で飲食をして楽しむ娯楽型「花見」は、ここが出発点ではないかと思います。

最後に秀吉作の醍醐の花見の歌を紹介します。

春風の吹くとも花はかつ咲きて しづ心にしながめけるかな

(春風が吹いても花はこのように美しく咲いて、心穏やかに眺めていることだ)

 

多くの戦火をくぐりぬけ、お百姓からとうとう天下人の地位まで上り詰めた秀吉。

その心に去来する出来事は様々だっただろうと思います。

こうして晩年に世の人があっと思う盛大な花見を開催して、秀吉は何を思ったでしょうか。

その心、思いはこの歌に秘められているのでしょう。

私たちが現在行う「花見」とは源流をたずねればこの秀吉の「醍醐の花見」にあります。

桜を見て、日本の歴史を考えるのもまた楽しいものですね!

 

It’s so fun to think of Japanese history while viewing sakura.

今日の桜の様子(おまけ)

さて、私 tomoは近所の桜の木を写真に納めてきました。

まだ一輪も咲いていませんでした。

 

去年の桜はこんな感じ。

同じスポットで撮影しました。

 

去年2018年の3月28日の撮影。

今日は21日ですから、ちょうど1週間後に当たります。

 

桜の開花はこれから。ワクワクする桜の時期をこれから迎えます。

川の護岸にはすでに黄色い菜の花が咲いていました。

 

 

桜に「早く咲いて」、と語りかけているようです!

 

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